ブログ②「礼拝は『お説教』を聞く場ではありません」黒田若雄高知教会 日本基督教団2021年11月13日読了時間: 3分更新日:2022年1月10日 少し以前になりますが、若い世代がそれぞれの宗教についてどんな意識を持っているかについて、インタビューしている番組がありました。その中で、キリスト教についての印象が語られていて、とても興味深く受け止めました。そして、特に印象に残った言葉がありました。ある人が、日曜日に教会の礼拝に出席するということは自分には考えられないということを言われ、更にこう言っていました。「せっかくのお休みに、教会で『お説教』されるなんて、とても自分には無理」と。 その言葉を思い返して、もしその人と直接お話が出来るとすれば、是非お伝えしたいことがあるのです。まず一つは、教会の礼拝は、単に説教を聞くためのものではないということです。もちろん、礼拝の中心に説教があることは確かなことです。しかし、それは聖書の講演を聞くようなこととは大きく違っています。礼拝は、イエス様が「神は礼拝をする者を求めておられる」と言われる通り、神様の招きに応えて、神様の前に立たせていただく時です。一週間の本当に慌ただしい生活をひと時止める。週の初めの日曜日の朝、心を静めて、神様の前に立たせていただくのです。そして、神様が私たちを愛し支えてくださっていること受け止め直して、感謝して、新しい週の歩みへと出発してくのです。 更に、もう一つお伝えしたいことは、礼拝の説教は決して「お説教」ではないということです。説教という言葉は、「また○○さんに説教された」と言うように、一般的にはあまり良い意味で使われないかもしれません。しかし、そもそも礼拝における説教とは、特別な意味を持つものです。日本語で「説教」といわれている言葉は、元々は「告知」とか「宣言」と表現した方が良いような言葉です。 説教は、牧師が一生懸命聖書の話をしているように見えるかもしれません。しかし、説教は、牧師のキリスト教や聖書の講演ではないのです。むしろ、礼拝に集まっている一人一人に対する、神様からのメッセージです。そのメッセージが、説教を通して届けられているのです。つまり、神様が、説教を通して、私たちに語りかけてくださるのです。そして、そこで届けられている神様からのメッセージは、一言で言えば「あなたを愛している、愛するがゆえに決して見捨てることはない」なのです。そういう神様からのメッセージが、礼拝を通して毎週私たちに届けられているのです。 説教では、一見牧師が話しているように見えると思いますが、実は、牧師自身もまず神様の声に耳を傾けているのです。聖書の言葉を通して、今、この礼拝集まる一人一人に神様が何をお伝えになろうとしているのか、それを聞き取って届けることこそ、牧師の役割なのです。 今日の礼拝の説教を通して、神様は自分に一体何を語りかけておられるのか、それを聞き取っていこうとされる時に、説教は本当の意味で働きをしていくのだと思います。そういう思いを持って礼拝する時、一週間本当の意味で生きる力が与えられる、私はそう思っています。
教会始めましてカナダの西海岸の片田舎に住む、岡崎です。
最近教団の憲章に関心があり教団のホームページを開けてふと懐かしい高知教会の名前を見つけ64年前の12月を思い出します、16歳の私には今で思うと簡単に開いた重たくも躊躇いもなく、旧吾北村の同級生に誘いについて行って、お菓子と聖書を頂き、その日にくじ引きでプレセントの交換のくじ引きをしてその時嫌だったこと、知らない人に当たったらと不安でとても恐怖を感じ、結果は同級生に当たり、二度と行くものかと元気な私は聖書だけをもらって帰りました、そして祖父母の住む、旧池川に帰り、次に私が聖書を求めたのは、英語圏のカナダでした、誰が聖書を持っているか、どこで手に入れるか、本屋の聖書は英語で役立ちません、勿論考えたことも無い、死ぬ前に一冊の聖書を読んでからでも遅くなとのに何処の誰が日本語の聖書を持っているか、家内と子供は異国の地でも普通に元気。
聖書を欲しいと大声をあげて叫ぶ勇気もなく葛藤の数か月、24歳の夏でした。
この時ほど聖書と教会が遠く開けたい扉はあきません、弱さと不安、怒りと挫折周囲は何の変化もありません、己の心と、頭と神経が肉体を益々弱くし、強がりをしていました。
懐かしい高知教会またお便りしましょう。
クニ&トシ